萬福寺(京都)の歴史i
1623年 宇治・大和田に108代・後水尾天皇の生母中和門院の別邸・大和田(おわだ)殿があった。
幕府はこの地を寺地と定め、大和田殿を撤去した。
1624年 萬福寺建立に着工された。寺地の他、大方の資材・費用は4代・徳川家綱から与えられた。
1659年 新寺開創の上旨を受けた隠元隆琦は日本に留まることを決意した。
山城国宇治大和山を新寺境内とする令旨を受けた。
1660年 隠元に代わって慧林性機が境内地を受け、黄檗山萬福寺とした。
1661年 開山=隠元、開基=家綱と決まった。山号寺号は、隠元が住持を務める福建省の黄檗山萬福寺に因んだ。
以来、福建省の萬福寺は古黄檗、京都の萬福寺は新黄檗といわれる。
総門、西方丈、執事寮、雙鶴亭が建立された。
1662年 法堂、浴室が建立された。塔頭、東林院が創建された。
二本松藩主丹波光重が狩野探幽・益信・常信筆「列祖図」、安信筆「十八羅漢図」を寄進した。
1663年 隠元は祝国開堂した。禅堂、執事寮、侍者寮、行者寮、竹林精舎、松隠堂が建立された。家綱が寺地400石を寄
進した。仏師范道生が隠元寿像、布袋像を造仏した。
1664年 仏師・范道生が十八羅漢像を開光した。隠元が松隠堂に退隠し、木庵性◆が2代に就いた。
開山寿塔、放生池が完成した。
1665年 木庵性瑫が出府し、寺地朱印状を受ける。甘露堂、米庫、土庫、通玄門が建立された。
1666年 後水尾法皇が仏舎利、宝塔を寄贈した。
1667年 家綱が白金2万両、西域木などを寄進した。舎利殿、八幡◆が建立された。
1668年 大雄宝殿、斎堂、天王殿、鐘楼、知客寮、妙高亭、塔頭、華蔵院、八幡◆が建立された。
1669年 後水尾法皇が仏舎利の賛を贈った。伽藍堂、祖師堂、塔頭・法林院が建立された。
1670年 米頭寮が建立された。宝前庵、慈福院が創建された。
1672年 塔頭、瑞光院が創建された。
1674年 ◆堂、◆堂寮が建立された。塔頭、紫雲院が創建された。
1675年 隠元の三周忌に遺骸を寿塔に納められた。開山堂が建立された。塔頭・万寿院が創建された。
1677年 末隠堂方丈が移された。
1678年 三門、通天門、看門寮が建立された。
1679年 鼓楼、塔頭・緑樹院が建立された。
1680年 木庵が紫雲院に退隠し、3代・慧林性機が就いた。
1682年 慧林性機が退隠し、独湛性◆が4代に就いた。
1692年 独湛性◆が獅子林院に退隠し、5代・高泉性敦が就いた。
法堂、禅堂、斎堂、東西方丈が葺き替えられた。浴室、大庫房が再建された。廻廊、三門が修造された。
1693年 総門(第一義門)が再建された。
1694年、松隠堂が再建された。雑器庫が建立された。了翁道覚が大蔵経を寄贈した。塔頭・天真院が創建された。
1696年 塔頭・自徳院、獅子林院仏殿が建立された。
1700年 幕府は伽藍修理費用として黄金千版を寄進した。
1701年 威徳殿が完成し、徳川歴代神牌が安置された。
1703年 了翁が延寿堂(省行堂)を寄進、建立した。
1704年 副司寮、米庫が建立された。
1708年 了翁の寄進により、大雄宝殿の屋根が葺き替えられた。
1709年 開山国師・隠元の道行碑が寿蔵の東南に建てられた。舎利殿に後水尾天皇像が安置された。
1713年 悦峰が塔頭、幻梅院を改め、真光院を創建した。
1721年 「普照国師広録」版木の焼失分が補刻された。
最盛期
1745年(延享2)の末寺数は51か国に897か寺に達した。木庵性瑫、即非如一、高泉性潡らの中興が活躍し、などによるところが大きいが,その他数多くの黄檗僧が世に出て活躍し,諸藩大名の支持を得た結果でもある。
延亮(1744-1748年)の最盛期には千の末寺を有した。この頃、臨済宗黄檗派とよばれていた。
1789年 22代・格宗浄超からは日本人が住持に就いた。
1873年 境内東部が収容され、陸軍省の火薬庫敷地となった。
1874年 臨済宗となった。
1875年 21万坪の寺域の大半が陸軍省の火薬庫となった。そのため、32院の塔頭は19院まで減じた。
1876年 臨済宗から独立し、黄檗宗大本山となった。
1882年 道永通昌が法堂に大蔵経版木を納めた。
1917年 諸伽藍が修理された。
1970-72年 開山堂、寿蔵、舎利殿、総門、祖師堂、法堂などが修理された。
1973年 文華堂が完成した。
頁リンク ⇒ 隠元隆◆ 徳川家綱 後水尾上皇 1745年(延享2)の末寺数は51か国に897か寺に達した。萬福寺2世で江戸に瑞聖寺を開創した木庵性瑫、豊前に福聚寺を開いた即非如一、隠元の法孫で萬福寺5世の高泉性潡の中興などによるところが大きいが,その他数多くの黄檗僧が世に出て活躍し,諸藩大名の支持を得た結果でもある。
以下編集中
その黄檗宗の禅僧は法系的に大きく紫雲派,広寿派,竜興派,獅子林派,東林派,華蔵派,漢松派,万松派,直指派,海福派,仏国派の11派に分けられ,そのうち木庵の紫雲派は万寿下,長松下など12派に分派しているのをはじめ,獅子林派は7派,仏国派は3派,漢松派,広寿派はおのおの2派に分派していて,黄檗宗は32派によって構成されている。…
【禅宗美術】より
…江戸時代初期に渡来した黄檗宗も臨済宗の一派であるが,ラマ教などの影響が顕著で,宇治の万福寺天王殿にみられる濃厚華麗な造形感覚を特色とする。隠元隆琦,木庵性瑫の画像と書画は従来の日本禅宗美術に比していっそう大陸的で,近世美術の展開に及ぼした影響は大きい(黄檗美術)。
【万福寺】より
…堂宇建立にあたっては将軍徳川家綱が白金2万両を施入したのをはじめ,酒井忠勝が金1000両,貿易商の長崎屋四郎右衛門が材木を寄進して,西方丈が1661年,法堂はその翌年におのおの竣工している。64年隠元についで第2世となった木庵性瑫が諸堂宇建立に力を尽くし,大雄宝殿(本堂),天王殿が68年に建立されている。第5世高泉性潡の時代に伽藍が完備され,チーク材による中国風の建築様式をもつ特色のある禅寺となると同時に,儀礼作法や言動,長髪長爪の様相に至るまでのすべてが中国の風習によった。…
…堂宇建立にあたっては将軍徳川家綱が白金2万両を施入したのをはじめ,酒井忠勝が金1000両,貿易商の長崎屋四郎右衛門が材木を寄進して,西方丈が1661年,法堂はその翌年におのおの竣工している。
64年隠元についで第2世となった木庵性瑫が諸堂宇建立に力を尽くし,大雄宝殿(本堂),天王殿が68年に建立されている。第5世高泉性潡の時代に伽藍が完備され,チーク材による中国風の建築様式をもつ特色のある禅寺となると同時に,儀礼作法や言動,長髪長爪の様相に至るまでのすべてが中国の風習によった。…